『白隠禅師坐禅和讃』は臨済禅と はどういうものか?という解説文です。
衆生とは、本来は仏のことである。
それはあたかも「水」と「氷」の関係のようです。
衆生以外に仏はない。
衆生は、近くを探さないで、遠くに探しに行ってしまう様な浅はかな事をします。
例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいるのと同じです。
長者(お金持ち)の子供が、家をでて乞食をするのと同じです。
「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」という6つの世界で輪廻転生する因縁とは、自分が、無知であった為に作ってしまった闇路です。
自分の思考が作った闇路から闇路を歩き続けているけれど、いつかは、そこから離れるべきす。
大きな乗り物(大乗の教え)でいう座禅による禅定とは、褒めるに値するモノです。
大きな乗り物(大乗の教え)の方法には色々あります。
布施・持戒と言った諸波羅蜜((六波羅蜜=布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)があり、
「念仏を唱える事」
「懺悔=間違いを悔い改める事」などの修行など、
たくさんの善行があるが、どれも大きな乗り物(大乗の教え)に帰することになります。
座禅をして功をなす人も、他の修行と同じように、積み上げてきた沢山の罪が滅びます。
座禅している境地の時には、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣など、どこにも存在しなくなる。
極楽浄土とは遠くにあるものでは無い。
ありがたいことに、この大乗の教えを耳にした時に、喜び賞賛している人は、すでに限りない福を得てしまっているのです。
それだから、禅定に入り、自分で意識を回向(向きを直す)して、(言葉に依らないで)直接的に自性(人間の自然な性質)の本体にたどり着いたときは(実証すれば)、
自性というモノは、観察すればするほど、実は、こうだと言い切れなくなる。
本来の人間には特定の性質なんかはなく「無性」という事にであいます。
これは言葉の遊びを離れた境地にある。
この境地から見ると、「原因も結果も一つのモノである」という門が開かれるのです。
その時には、第二の道も第三の道も消えて、本来の道に直ってしまう。
無相とは、相(認識)なんか無いという認識法なのだから、座禅とは、行くという事も帰るという事もないし、座禅とはどこか余所に行く事でもない。
無念とは、念(意志)を起こさないという念のことで、歌うことも踊ることも何をしていても念が無くなる、そうすると、する事すべてが、仏法そのモノのになります。仏法が、歌声になり踊りになり、行為そのものになる。
三昧になるから、心には礙(気にかかること)がない空がひろがり、4つの智慧のまあるい月が冴え渡る。
【大円鏡智=大きく丸く全体を智る智恵、平等性智=上下で見るのではなく平等であることを智る智恵、成所作智=モノを作り上げる事を智る智恵、妙観察智=微妙な物事を微妙な所まで観察し智る智恵】
この智恵に充ちた状態にある時には、何をもとめる事があろうか。(内側では智恵に充ちて、何でも分かるので、他からの知識を求める必要がなくなります。)
考えるという事が、静かに消滅してしまうから、そのままでの、この場所が蓮華国であり、そのままでの、この身が仏である。
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初期の仏教の流れの上座仏教と大乗の仏教の違い
上座仏教はスリランカやビルマの仏教です。
出家の仏教です。
世界を四苦八苦(しくはっく)として捉えています。
根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、
あと四つの苦をあげています。
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。
そして仏教徒、沙門(出家僧も在家も)八つの正しいことをするように教えられています。
この八つの道を記憶しましょう。その八つとは次のことです。
正しい理解 (正見)
正しい目的、または思考 (正思惟)
正しい言葉 (正語)
正しい行為 (正行)
正しい生業、または仕事 (正業)
正しい努力 (正精進)
正しい気づき (正念)
正しい集中 (正定)
大乗仏教は、在家 大衆や衆生の為の仏教です。
基本的には上の苦や八正道を受け継いでいますが、
人生は必ずしも苦とは捉えていません。
苦ではあるけれども、大衆(衆生)の心の本性は、同時に歓喜にも満ちた世界として捉える事が出来るようになれるいう視点です。
良しきも悪しきもみな打ち捨てて
生池の白池で月日を送れ
さわりゃ濁るぞ谷川の水
問うな学ぶな手出しするな
これが誠の禅法じゃほどに
見ぬぞ仏ぞ知らぬぞ神ぞ
白隠禅師